(一) 今年最も大きな出来事は、5月末に母が92歳で亡くなったことです。

 それに繋がる記憶として思い浮かぶのが、母の亡くなる
3ヶ月前に私が行った講演です。
この講演は年明け早々総社市から依頼を受けました。予算年度末の
3月までに実施する必要があったので、当店の定休日だった228日(火)に、サンロード吉備路で行いました。
 この講演のテーマは「創業」で、当店を開業するに至った背景や、その後の経過を話しました。
私は講演の
1ケ月ほど前から原稿作りを始めました。
その時点で、私は母が特に弱って来たとは思いませんでした。確かに高齢による体力の衰えはありましたが、体調が急に変化する様子は見えませんでした。
それまで母は毎年数回倉敷中央病院へ行き、その都度診察も受けて深刻な問題はありませんでした。
母はどんなに短くても今年一杯ぐらい頑張ってくれるものと、私はどこか楽観していました。

 ところが私が講演を行ったちょうどその頃、母が倉敷中央病院で受けた最後の検査で最悪の結果が出ました。
いつも付き添いで行く父に、その日伝えられた診断は肺癌の末期でした。
後日父からそれを伝え聞いた私は、驚くより疑う気持ちが強かったのを覚えています。
と言うのも、母は昨年にもこの病院で肺のレントゲン撮影をしており、その時には特別問題が無かったからです。
父が見たレントゲン写真では、肺に水が溜っており、そのせいで呼吸による酸素吸収が減るので、血液中の酸素濃度が低下するとのことでした。私がインターネットから調べた結果でも、肺癌で水が溜る症状ならステージ
4の診断でした。私はせめて母の症状が肺炎によるものであればと願いましたが、そんな重大な結論で医師が誤診するとは思えず、3月初めに私は重い気持ちで父と一緒に病院を訪れました。

私が想像するに、担当医が最初に肺癌の診断を父に伝えた時、父が動揺する様子を見て、家族と一緒に来るよう言ったのだと思います。私は医師の指示通り父に同行し、診断結果に納得したらその場で、母への告知をどうするのが良いか相談する積りでした。そして実際その通りの成り行きになりました。
医師の説明ではレントゲン写真に肺炎の所見は無く、肺癌のステージ
4で、余命は3ヶ月という事でした。私個人はそれまでの母の様子から、母が3ヶ月後に亡くなるとはとても思えず、短いと言っても半年位は元気な期間があるような気がしました。それもあって私は、母にどのような告知をしたものか医師に尋ねました。私は母に嘘を言いたくないと思い、初めから告知を前提に考えていたのに、医師は告知しない方法もあると言いました。母の場合は治療法が無いので、この先癌が治って社会復帰する見込みも無く、一刻も早く本人に告知し治療に専念させる必要が無いという理由でした。

 医師の指摘は確かに合理的ですが、父の耳にはさぞ残酷な通知だったでしょう。
ただ医師は残された短い期間、母の生活の質をできるだけ高めるのが良いとも言いました。
私もそれには全く同感だったので、母にとって残された日々が、この先
1日でも長くなるのに役立つ方法が良いと思いました。私の満足の為に母に病状を正確に告知しても良い結果が出るとは限らないし、逆にそのストレスが僅か数日でも余命を縮めるかも知れない。正確に伝えて嘘をつかないことで、私は自分のストレスを軽くしたかったのかも知れません。
私が告知に拘ったのは過去に経験した実感からです。
私は若い頃何人もの人達を見舞いに病院へ行きました。不治の病に冒され入院した人達に面会した時、早く元気になってとしか言えなかった自分に、後ろめたい気持ちを持ち続けて来ました。しかし今にして病人の心情を思えば、めったに会わない若者がお別れを言いに来たかのように思え、当時の私が若く単純だったと言えます。

 ともかく、私と父は医師の助言を受け入れ、肺癌の告知はしないことに決めました。
母への説明は、肺に水が溜っているが高齢なので治療はできず、苦痛をやわらげるしか方法が無いとしました。
その後は母の希望通り在宅で訪問診療を受けられるよう、医師にその手続きを相談しました。
幸い総社市内に訪問診療専門の医院が開業し、そちらに連絡もしてもらえました。
私は母の身に突然舞い降りた不幸を憂いつつ、その反面今後の展開を考える上で、環境条件が整って来た不思議さも感じました。
 父や東京に住む姉はこの時点では、在宅で母を看取る方法を考えていなかったようですが、私はそれがベストだと最初から考えていました。
しかし高齢という理由だけでは、訪問診療に切り替えられません。末期の肺癌という診断で、そのハードルを一気に越えられ、関係者の協力によって
3月下旬には、早くも在宅での診療体制が整いました。

 話は元に戻りますが、私が2月末に行った講演の中でも、喫茶店を始めた大きな目的が両親の老後を看る為と説明しました。
私達夫婦が清音の地に戻って開業したのは
10年前です。当時両親はとても元気で頑張っていたので、この先10年位準備期間があれば大丈夫だろうと、大ざっぱに考えていました。
両親の隣りに住んで様子を見ながら、その間に店の営業を安定させれば、営業しながらでも対応できるだろう程度の考えでした。具体性の無い希望的観測に頼って、将来に備える事もせず年数が過ぎました。両親も自分達の先行きについて話す時、ピンピン・ころりが理想的だと、都合の良い話を繰り返していました。私達夫婦にも両親にも具体的な備えが無いまま、その日は突然やって来たのでした。
 しかしその時私達の目の前には偶然にも整った環境があり、手を伸ばせばすぐ届く幸運に恵まれました。


 (二)この先にあるもう一つの大きな課題は、私が両親から受け継ぐ農地と農業です。
母が
90歳を迎える頃に、腰を痛めたのがもとで、次第に畑仕事に出るのが難しくなっていました。今もなお達者な父には農作業の負担が全て掛かり、私がそれを軽減する必要が迫って来ました。
とは言っても几帳面な父のように、こまめに耕し草を取るなど、全ての作業を同じにできるとは思えません。
それどころか私はこれまでそれらの作業を、一通りでさえ経験もしていません。
 そこで私は農作業をできるだけ省き、最低限で済ませる方法がきっとあると考えるようになりました。
そんな時私の前にまた驚くような機会が訪れました。偶然にも店に自然農法の先駆者がやって来ました。
その当時私が最も知りたかった情報を、彼が長年近所で独り実験し実証していたのです。更に心強いのは隣の農家の長男
2人も、私と同様の思いで新しい情報を望んでいました。

我々3人は師匠に自然農法の教えを乞い、まるで乾いた地面に水が浸み込むようにその教えは浸透しました。それ以降私は畑に種を蒔き、苗を植える作業を自ら進んで始めました。私には作物の出来不出来より、自然農法のやり方をどこまで取り入れられるか、1年を通じて試して見る事が必要でした。今の住居兼店舗の南側にある畑が私の実験場です。私が実験を始めて今年で3年目が過ぎました。さほど大きくない畑ですが、今年初めて全面に作付して野菜を作りました。
それまでの私は店に掛かりきりだったのに、畑での作業にかなりな時間を充てるようになりました。一旦植えた以上世話をしない訳には行きません。
水を遣り雑草を取り苗を間引きし、そうして私がこの春初めて育てた大根を自分で調理し、病床の母に食べさせました。母が私の育てた野菜を食べたのは、これが最初でそして最後になりました。


 私が喫茶店を始める時、最低
10年は続けようと考えました。今その10年が過ぎました。
当面営業を止める事は無いでしょう。しかし
10年はやはり一区切りだと最近感じます。
店の営業を続けながら母の看取りができたのは、父の献身的な介護に支えられての事でした。
しかし次は父の番が来る訳で、その時は私にもそれ相応の覚悟が必要です。たちまち店と畑と介護に割り振る時間をどうするか、目前のハードルは次第に高まって行きます。店だけに全力投入出来た過去は奇跡です。

両親の老後を看る為の手段として営業を続けた
10年はすでに終わり、次の目標は農地と農業の継承になります。
今後店は営業の形を変え、目標達成を助ける一つの要素とします。
それこそ母が生前気にかけていたであろう、店の営業と農業がこの先でまとまる道です。
私が人生の残りの日々で拓いて行く目標が示されました。

 私は会社員を少しだけ早く辞めて田舎に戻り、自営の店をやりながらも、徐々に農業と向き合うようになりました。
農業が真に素晴らしいと感じるのは、年齢が幾つになっても自分流に続けられるからです。
天候に合わせて作業し、自分の体調によって作業量を変え、大まかに時期を外さず植え付ければ、作物自身がそれに応えて生長します。自分達が食べる物を安全で栄養豊かに作れたら、日々の生活が恵まれたものに感じられます。地元の農業者がその事に目覚めたら、農業者の生活が魅力あるものに変わります。地元農業を魅力あるものに復興できれば、やがては後継者難の問題にも日が射すでしょう。
 私は人生に区切りはあるが終わりは無いと思うので、私自身が肉体的限界に至るまで、農業の魅力を伝え広げて行く課題に挑戦し続けたいと思います。

勿論珈琲の良さも伝え続け、店も残しながら生かす方法を考えて行きます。

                                  2017年11月
                                   横田正義                                       

10周年を迎えて